カリヨンとは?
カリヨンとは?
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楽器としてのカリヨン
聞きなれた言葉のようでいて、実は実態のよく分からない「カリヨン」とは何でしょう。
「メロディを奏でられるように、音程を設定・調節して組み合わされた複数の釣り鐘から成る楽器のことで、鐘の個数は最低でも23(=2オクターブ分)であること」
…という規定がthe Guild of Carillonneurs in North America (北米カリヨン奏者連盟)にあります。
メロディを奏でるには二つの場合があって、
- 機械による自動演奏
- 人間による演奏
と区分されます。
その歴史
最初は自動演奏
13世紀頃、鐘が時間を告げるものとして発祥した時点では、もちろん「人間による演奏(と言うより、ワイヤーなどで“打鐘”する、という表現の方が妥当でしょう)」のみでした。
しかし、後述するように鐘の数がその都市の豊かさの象徴とされ、数を増やして行くにつれ、ワイヤーを束ねて人間が直接打鐘するよりも、オルゴールのドラム部分を巨大にしたものによってワイヤーをコントロールし自動演奏する、ということが多くなりました。
一方、ロープをコントロールするために“鍵盤”を使う、という技術も考案されて行きました。鍵盤を使うことによって、カリヨンは時を告げる「建築物」から「楽器」としての機能を得たことになりました。
豊かさの象徴と「鍵盤楽器」化
中世ヨーロッパでは、都市は中央に尖塔を持つ教会を擁し、その周囲に市が立つ広場があり、広場を囲むように有力な商人たちのギルドハウスが建ち並ぶ、というのが、今日まで残る標準的なレイアウトです。
競うように多くの塔が建てられたこの時期、フランドル地方は毛織物産業の隆盛により、当時の“世界経済の中心地”だったのです。
そして富裕な商人たちは、自分の財力を誇る意味も込めて、様々なサイズの鐘を塔に設置して行きます(寄進、ということで教会に対する影響力を獲得した、と見ても良いでしょう)。
自分の鐘が鳴るのを聴きたい、というのは当然考えられるリクエストであり、鐘の数が増えて行くプロセスで、それを演奏する自動演奏のドラム、または鍵盤を開発する推進力となりました。
カリヨン奏者の登場と、教会からの「自由」
鍵盤を扱える、ということで、多くの町では教会のオルガン奏者がカリヨン弾き(フランス語でCarllionneur(カリヨヌール)、英語も同じ。オランダ語ではBeiaardeer(バイヤールディーア)と呼びます)を兼任しており、この傾向は今でも残っています。
しかし、富裕な商人層の「権威からの自由」の象徴でもあるカリヨンは、「オルガン=教会」「カリヨン=市民・自治・自由」と、はっきり区別されているのです(とは言え、こうした区分を明確に理解しているのは欧州人の間でもカリヨン奏者と、それを兼任しないオルガン奏者、教会関係者ぐらい、と言われていますが)。
最盛期から衰退へ
15世紀頃、大航海時時代に突入したばかりの「経済後進国」だったポルトガル人が水路アントワープに上陸した際、カリヨンから奏でられる音楽を耳にして「空中に音楽が漂っているなんて!」と驚嘆し、「この地域の圧倒的な豊かさを実感した」と書き残した古文書が存在しています。
しかしその後、フランス革命、ナポレオン戦争等によってカリヨンは相当なダメージを受け、自動演奏機や演奏者のみならず、鐘そのものも何度となく生存の危機に晒されました。
蘇るカリヨン
第一次大戦時に、欧州の西部戦線に参加したアメリカ兵士は、町に響くカリヨンの音色に深く感動し、是非これをアメリカにも伝えたい、という動きにつながって行きました。
現在ではアメリカは、広大な国土に数多くのカリヨンを擁しており、世界最多のカリヨン保有国、そして演奏者であるカリヨヌールの数を誇ります。「自由の象徴」であるカリヨンが、アメリカの国民性にも強く働き掛けた、と言えるでしょう。
ベルギーのメヘレン市にある王立国際カリヨン音楽院は、近代的な奏法を確立した伝説的カリヨヌールであるジェフ・デネインが、1922年、アメリカのフーバー大統領(当時は商務長官)、ロックフェラー氏等の支援を受けて設立したものです。楽器であると同時に建築物でもある、古い歴史を誇りつつ楽器としての奏法や理論研究はこれからにかかっている、そして現在も、世界のどこかで古い鐘や塔は修復され、新しい鐘や塔が作られ続けている、そんな“古くて新しい楽器”としてのカリヨンの魅力は尽きません。
ご参考:
ジェフ・デネイン王立国際カリヨン音楽院(蘭・英・仏)
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